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  • 執筆者の写真: 莉江 藤田
    莉江 藤田
  • 2016年9月7日
  • 読了時間: 3分

嗚呼もう、死ぬほど、(全て)どうでもいい

まだまだ知らないことだらけであることを解っている。 けれど、進めば進むほど 解ってもしまう。 もう、きっとだいたい全部解ってしまったこと。 無限にありそうなルートをいくら、選んで、毎度行き着くところがおなじであること。 それは、そうなる思考回路を持っているわたし自身がわたし自身であるから。 無意識に集約される先。 行き着いてしまったぶんだけ、またその先の部分は少しずつ大きくなって、またそこへ集約される可能性が1ミリずつ大きくなってしまう。 先、であり、果てであるような気がしている部分から先の未知は言うまでもなく未開拓なのだ、つまり。 点が太ってきてしまい、毎度、否、幾度となく、という表現に近い回数、点を突いてきたがゆえに点になってしまった点を、線にする必要、についてそろそろ気づかなくてはいけない。 諦めるというよりも、喉まであがってきたおおきなものを飲み込む感覚に近いどうでもいいと思う感覚と、真逆であるような、何にだって無差別に抗いたいような強い気持ちを同時に持ち合わせていることを客観的に見ている。 何度だってここに来てしまう、この点の意味を、わたしは無かったことにはしない。 けれど、この点がなかったことになるように、この点を線に伸してゆくことをこれから考える。 お金で買えないのは愛よりも、未熟ゆえ、を理解する悔しさだ。 愛情は、もらったつもりになることが出来るけれど、与えられるような悔しさで涙を流し、糧にすることなどできやしないと思う。

苦しみだってそう。 だいたいの苦しいことが、実際、自らの命の危険など無い、というか、不快というもののひとつとして勘定できるだけで、危険では無いということを理解していれば、あまり、怖くもなかったりする。 少し工夫すれば回避できることが殆どなのだし。実際のところは。 ぼろぼろになって泣き崩れたところで、得られるのはその経験と体感、その記憶。 ぼろぼろ泣き崩れたことがたった1度でもある人生、と、呼べるのか。 そうなると自分の身体がどうなるのか、目が痛む、頭痛がする、過呼吸になる、空腹を感じなくなる、眠れなくなる、とか。それを知る。それだけ。 もやすものがなにもないより、悲しみでさえもやして走りたいわたしにとって、感情はもはや揺れさえすればいいのかもしれない。ゆれれば、もやすものにかわるから。 それが自分を高めると理解していて手を出さないのであれば、やはりそれまで。 その時、選べるのであれば、苦しい道を行ける自分をわらえるわたしが、わたしは好き。 つよくなりたくて、つよくありたくて、自分の肩を抱いて息をひそめる感じが好き。 わたしがつよくなるのを邪魔しないでほしい。


 
 
 

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