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約2週間、離島にある祖父母宅へ来ている。
ここには自分の家財一式があり、勿論撮影してきたフイルムやらスキャナーやらプリンターやらなんやらも、全部ここ。作業するためにただただ引きこもっている。帰ってくるたびに、着実に一歩ずつ進む過疎化を感じ(とはいえそんなに何年も帰らないことはない)少しでも自分の中にある懐かしい島を撮りに出たい気持ちもありつつ、徒歩10分未満の生活圏(すごく小さいスーパーが一軒ある以外に商店はない)で生活している。
祖父母はもう亡くなっているので一人だ。
体内時計に正直に、つまり自制心など無く自堕落に生活すると、わたしの体内時計は一日26〜27時間だとわかる。2、3時間ずつ寝る時間がずれていき、一週間で約12時間ずれた。今日は朝しっかり日が昇ってから寝て、一度夕方4時に起きたものの結局夜の9時まで寝た。
久々に静かに一人暮らせて、考え事も捗るかと思いきやまだあまり頭の中がスッキリしない。
ただ、静かであることが自分にとってこれほどに大事なのか、と思うほど安心感は強い。風の音、たまに港の船の入港に伴う放送、一日に一回くらい町内放送、数回の時報、そしてわりとやかましく鳥が始終囀っている。とはいえこれは心地よく聞き流せる。雨音も、きちんと美しい。
だいたいいつでも、小さく刻む時計の秒針にきちんと耳をフォーカスできるくらいの静音環境が好きだ。(少し雨が降ると、雨音に簡単にかき消される静かな秒針だけど。)
調べたことはないけど、聴覚過敏の気があるので、実家で暮らすのはどうにも耳が休まらなくて、頭の中がクリアになることがなく、いつでもぼんやりした感じを自覚してそれに苛立ち、少しずつ消耗していく。
最近、視覚情報の取り込みが以前に比べて苦手になっている感じがする。
何かを見ても、目がそれを判別するところまでして、滑っていく。
「ちゃんと」見れない。
文字以外の視覚情報を読めない。
これは耳が音で溢れて、目からの情報が入る隙さえも埋めてしまっているような気がしなくもない。
じっくり見たいと思っているものも、なんとなく、夜中に頭を洗うときに背後が気になってしまうみたいなソワソワした感じに邪魔されてしまう。
何を見ているのかわからなくなってきて、その自覚が少し息を乱す。
「できない」に、少しこわくなる。
できていたことができなくなる、というのはたまにあることだけど、感覚を失うというのはこわい。
針の穴に糸を通す感覚、目が悪くなって、できそうな感覚は残っているのに、実際できない。それとは違う。
感覚そのものがなくなって、技術ではなく感覚でやっていたことの感覚を失うということは、「まっすぐ立つ」ができないに似ている。
それまで意識なんてしなくてもできたことが急にわからなくなったり、できにくくなるというのはこわい。とても。
昔めまいが酷かったときに似ている。
二度と全力疾走なんかできる気がしないと思った。
地面がわたしの思うところにはなかった。
踏んでるはずの地面がずれる。
見ているはずのものが滑って落ちていく。
一時間前に見たものの詳細はほぼない。
輪郭だけは覚えているから日常生活に支障はない。
自分が撮った写真を見ても「こう」撮った記憶がたまにない。
「ここ」は撮った、覚えてる。
そういう感じ。
昨日、バックパッカーをした2ヶ月の写真をやっと全部読み込んだ。 カラーはお店で現像して、データをもらっていたので見ていたけどモノクロは初見。 嬉しい写真が何枚かあった。
ただ、自分の写真も、うまく見れずに目が滑るので、やっぱりちょっと、くるしい。
誰が撮ったともわからないような、こういう観光写真が逆に見やすいと感じるくらい、目が多分、弱っている。