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  • 執筆者の写真: 莉江 藤田
    莉江 藤田
  • 2017年2月5日
  • 読了時間: 2分

自分の使う日本語が変わってきている気がする。 主語が入らない文が減った。 英語的である。 違和感があって気持ち悪いし、けれど止めることもできない部分の変化で。 あとから文章を読み返して、不要な主語を削ったりとか、ほんとう、おかしなことだと思う。 もう、右耳も左耳もなく英語を聞く。 文章としての成立はしていないかもしれないけれど、それでも英語を話す。 脳みその活性化にはいいかもしれない。 撮っている写真にはあまり変化を感じない。 今は働いているわけでもなく、半日学校に通うだけで、あとは遊びをしている。 遊ぶことを、自分からあまりしたがる方でもなく、遊ぶことも少々の努力を要する。 (もちろん楽しんでいる) 自分になにかしら負荷をかけること、大事だなと思う。 日本ではかけれなかった負荷を、ここでかける。 でもまだなんだか、やっぱり足りない。 この物足りなさがどこからきてるのかとか考えだすと、日本での生活はどうしてあんなに忙しかったの。 勿論働いていた時間は今学校へ行っている時間よりも長いし、今は家事もほとんどしなくてもいいけれど。 ここにいるよりもずっと「遊び」をやらず、ここにいるよりもずっと、一人で過ごしていた。 疲れる量が違うとはいえ、今よりずっとタイトな休養で生きて、なんであんなに忙しかったのかと思うと残念になる。 日本には、「できること」が多すぎるのかもしれない。 「できること」は「できる」ので、やってしまう。

そして、やっぱり、お金のことは難しいと思う。 あんなに働いても、いろんな意味で豊かさを欠くのはなぜだろう。 ものが買えることよりも、時間を豊かに使えるほうが豊かであることを知らないまま生きるのはつらいことだと思う。 時間があれば使えるお金のために働く時間を増やしてしまうのは、性なのか、悪い癖だと思う。


 
 
 

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