とりとめもなく。
展示の準備をしながら、ふわふわと(どちらかというと悪い意味で)生活している。 思えば、展示準備ににかかりきりになれる(仕事をせずに)というのは、初めてだ。
けれども、実家に転がり込んでいるかたちの今、頭の中は全く通常通りには働いてくれない。 一人暮らしに慣れすぎているし、常に誰かがいる空間で落ち着けない。 ・・・のを通り越えて、やっと慣れてきたのだけれど、そうするともう、何をする気も起きないに近づいているような。そんな心地である。
食べて眠るだけである意味満足に近い日々は、健康なのか、不健康なのか。
先月、2週間ほど、思いつきのようなプランで台湾を単独縦断旅行した。 安宿を転々としながら、たどたどしい英語でなんとかコニュニケーションを取りながら。
日本よりもすっかり夏な気候、エアコンも含めた気温の落差にやられて風邪っぽい喉になったりして、少々体力的に疲れがあったのか、帰国してちょうど一週間ほどになるのだが、スローモーションな日々を送っている。
辛うじて、帰国一番にやらねばと思っていたDMの入稿を済ませ、Bookの印刷の見積もりを取り、見たかった展示をいくつか見た。
浮かんでは消え、浮かんでは消えする様々なことがらを、とどめるまでには精製できず、単に自堕落な生活をしているにすぎない現状は辛いのだけれども、辛いというのも馬鹿野郎というかんじだし、ぐだぐだうじうじと言いたい気持ちは正直どこかにあるけれど、誰彼なく構われたくはないという天邪鬼。
思う存分、ひとりでぐだぐだしていたい。
台湾でもそう思っていたのだけれど、思いの外ひとりでぐだぐだしている暇はなかった。
思う存分ひとりでいると、こころから誰かを求めるし、そうなって、求めた人に、ものに、会いたいなあというようなことを思う。
毎度、そうしながら、次に立ち上がる瞬間に己が見る方向がしりたいのだと思う。
限りなく嬉しいことがあると、いろいろなことがどうでもよくなってしまう事に気付いてから、嬉しすぎる事も、生命力をうばうものなのかと思う。
しあわせになんてなれないのだろうなあ、という漠然とした予測のもとにいつからか未来をみていて、それがすっかり打ち砕かれてしまって、簡単な事で目一杯しあわせを感じてしまって、もうこんなにしあわせならどうでもいい、と、思える事がある意味こわい。
全て放棄しそうになる。
それなりに腹も立つし、やり場なく憤ってしまって眠れなくなったり、濡れた傘をひっかけられたらそれだけで舌打ちもしてしまうけれど。
この程度のわたしには十分過ぎる喜びだよ、と、そんなふうに思うから、うれしいと、時々、申し訳がなくなってしまう。
かなしいことの感情を蓄えるうつわは、年々、大きくなってきて、上手に濾過を待つことができるようになってきた。
うれしいことというのは、濾過ができなくて、溢れてしまうものだ。これ以上細かくならない。
当たり前のように浴びせられると、もうそれは麻痺に近いかたちで、触れてもわからなくなってしまう。