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  • 執筆者の写真: 莉江 藤田
    莉江 藤田
  • 2016年9月11日
  • 読了時間: 2分

写真を撮ってもらうこと、について考える。 わたしは自分で自分を撮影する。 表層のよい部分に着目して、人体という造形を撮影をすること(欠点と感じる部分を気にならないようにすること、欠点と思しき部分も魅力的にみせること含め)又、「らしさ」を添えること、偶然を迎える気持ちをもつこと、むきあうこと、遊ぶ気持ちを持ちつつ遊びに徹さないこと。 一言で言うと、ひととしてひとを尊重すること。 ひとを撮る時、なんとなくそういうことが必要なのではないかと思っている。 自分が自分を撮る時は、少しそのリミットを外すことができる。 ひととしての尊重よりも、出来上がる像を尊重する事が、結果自分を救う事になると知っている。 なかなか、ひとは、そこまで踏み込んでこられない。 踏み込ませないし、踏み込もうとしない。 阿吽で、踏み込む事を許可し、実際に踏み込まれられる関係というのは稀有だ。 けれど、踏み込まれない事は悪い事でもない。 その場から見える景色としての自分は、そこではじめてみることができるのだから。 そう思うと、撮ってもらうこと、というのはとてつもなく代え難い体験なように思う。 特に、自分を撮る自分にとっては。 ただ、表層だって、普段は撮る気がしないのだけれど、自分でも撮ることはできるんだよな、というそういうアンチテーゼもいいんじゃない、と、これはそういう遊びの写真。 そうして遊んでみても、パーフェクトに(という言い方にしかならないけれど、)撮ってもらった写真には敵わないことが、また、うれしいもんだな、という気持ちになって、ただただ、あのときうれしかったなって、またぶくぶくと顔を半分湯船にうずめるような気持ちになる。 「撮られることが好き」だという意識はないのだけれど、それでも撮られることに、特別な感情がある。 こう思えるまで、長かったな。

こうしていただけたこと、を、感謝しています。

 
 
 

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