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- 莉江 藤田
- 2016年9月26日
- 読了時間: 2分

先日、お墓参りに行きたかったのだけれど、天候のせいで叶わず、お仏壇の前でいつもよりゆっくりと故人と話をした。 その墓山は「墓山」というに相応しい様子のもので、かなり急な坂道を登りながら参ることになる。
天候が悪い時は舗装されてない部分も多い為登らないほうが無難であると言われてきた。 残念だったけれど諦めることにして、お墓へあがったらものすごいヤブ蚊がいてゆっくり手を合わせ、そこで話すことは難しい為、逆によかったかもしれない。 前回も駆け足で参ったため、ゆっくり話してよと思った故人が、雨を降らせたのかもしれない。 故人に手をあわせ、話しながら、亡くした寂しさや悲しさからではなく、涙が出た。 いつも「がんばるから、どうかみまもっててね」と、報告がてらつい言ってしまうのだけど、今回はなんだかそれがとっても情けないような気持ちにさせた。 がんばるから、とはいいつつも、おねがいばかり、している。 亡くなったひとを心配するというのもおかしいようなのだけれど、そちらはどうですかと、こちらも想っていますよと、なぜか伝えることをせず、自分のはなしをして、がんばるから、だから見ててって言ってしまった自分がとっても情けなかった。 きっと仏様たちはそんなこと気にしないんだろうとは思っていても、気にしないから気にしなくていいとかじゃないし、できるからできることをあたりまえに捉えていることは間違いではないかと思ったりしていた最近だったので、はたはたと涙にしかならなかった。情けなかった。 あまりにやさしくしてくれる人たちがいる。 なるべくわたしが気づかないように、それは、気遣わないように、やさしくしてくれているのをすごく感じたりする。 気づかないように、というはからいに、もし気付いても反応する隙をもらえない。 目に見える親切の裏に、カモフラージュされた特大の親切に、ほんとうに涙しか出ないんだよ。 きっと全てには気づくことができていない。 わたしは愚かだし、まわりのやさしいひとたちは、やさしさとかしこさがあって、粋で、巧みなのだ。 わたしなんかに心配されるようなことはないのかもしれない。 だからって、そうじゃないって、そう思ってたのにね。
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