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「人間って、こわいなぁ」と、時々ポツリと思うのだけれど。 舗装された道路の上を歩いていて、その下にどんなものが埋まってるかなんて考えないでずかずか歩いているのと、なんだか似てるなあ、人を信じること、というのは。 親ですら、どんな人なのかわからずに当たり前のように一緒に暮らしたりしていたんだな、とか。 別に触れることのない道路の下に、過去の生き様に、不安にならねばならないということってないのだと思う。 べつに悪いものばかりが埋まってるわけでもないし、悪い過去や裏の顔があったとか聞いたわけでもないけれど。 いま関わっている、ということをすべてと見なしても、なんか、いいかな、みたいなことが、信じることのひとつなのかも。と、最近は思う。 信じる、ということとはどういうことだろう?は、振り返れば小、中、高校あたりからけっこう自分の中のおおきなトピックであったのだけれど、「このひとになら裏切られても赦すだろう」が、二十歳以前に自分がたどり着いた一番正解に近いと思っていた解だった。 解は出たけれど、それ以降も、このトピックが見えない状態に、人生が、ならない。 「ひとを信じなさい」と、ことばそのままに教えられたことは無い気がする。 物騒な世の中だ。仕方ない。 信じるか信じないか、という2択ではなく、信じたいのか信じることができないのか、の2択なんだろう、と、比較的近年のいつか、思った。

他人を理解することなどできない。 けれども推し量れる部分はあってしまう。 それは自分が推し量った時ではなく、推し量ってもらった時に気づかざるを得ない。 だから「あってしまう」という言い方になる。

思ったよりも、ひととひととの関係というのはあやふやで、あやふやなのに成り立ってしまってるかのような部分が、寧ろ、すごいもんだと思う。 信じる、信じない、信じたい。 そのあたりのことは、直接、がけっぷちのような場所での判断でそれを考えるのではなく、ひととひととのかかわりを続ける限り、ずっと続く裏打ちされたテーマなのかもしれない。 自分が見ている世界が数秒前からあったということすら現代はまだ証明できないらしいけど。 世界にはほんとうにふしぎなことがあふれていて、すべてがあやふやなもののうえで成り立っていて、時々、人間も世界も、全部、こわいもんだなぁ、と同時に、すごいもんだなぁ、と感心したりもする。 そう。そう。 だからもう、「概ねしあわせ」って言わざるを得ない。 9日の記事、書いたのに公開されてなかった。 気づけば雑記だらけのblogになってなんじゃいなと思うけど。 まあいいか。寝よう。

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