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展示の準備をする時、内面的な何かを整理するような展示の場合は、1曲、テーマソングみたいなものがあることが多い。

去年末の個展の時は、すべて英語の歌詞だったので意味はわからないままに(元々、その曲の歌詞を理解しようと聴いたこともなかった)ずっと聴き続けてしまう曲があって、展示準備に行き詰まった時に訳してみればというアドバイスをいただいて、なんとか翻訳のようなことをしてみたら、鳥肌がたつほどドンピシャに、言いたかったようなことがそこにあった。 意味はわからないのに、伝わる。その、「感じ」を正確に歌い上げる歌手に脱帽した。 自分が今、生きながらに、なににひっかかっているのか?を追いかけるのに、ひとつ、展示という方法をとるのだけれど、十代から聴き続けている曲が今更に、十代から聴き続けているから今頃に?大きく自分の中にあるものとリンクして、その歌を知りながら聴きながら生きた十余年と、改めて大きく再会することって、当たり前なのか、不思議なことなのか。

もうすっかり自分の一部のようになっているひとりの歌手の存在は、ある意味恐ろしい。 わたしが日常、歌を聴く歌手というのはきっとものすごく少ない。 ヒットチャートにはついていくことができないし、執拗なくらい、十数人くらいの歌手の歌を延々聴く。

その中でも、作る時に影響される歌手は片手で足りるほどに少ない。

聴けば素晴らしい曲は世界に五万とあるのだろう。 でも、そんなに大きく手を広げられない。だって、たった数人ですら、10年かかっても、まだ聴ききれていないのだから。 今回聞いているのは2001年の曲で、繰り返し聴き始めたのは確か19か20の時。

今回の個展の1つは、正直、今これをやっていいのだろうか?という迷いが少しあった。 自分の中でものすごく大きなことなのだけど、このタイミングでいいの?というような。 だけど、あまりにも大きなことを、そうでもなくやること、がある意味、ちょうどテーマにもあっていて、二重にうそをつくような、そういうことでいいのかもな、と、ここはタイミングの神様がつくってくれたタイミングかもな、と、そういうことにした。

色々、どうして?と聞かれると困る。

説明はできるけれど、隠したいことだから。 なるべくわかってほしいから、精製して見せる ばかりがつくる理由じゃなくてもいいかなって今は思っている。 ひねくれていると言われるかもしれない。 可愛げもないだろう。 ひとりよがりには違いないんだとは思う。 そういう、ひとりよがりな部分があっても、違う部分で、要は、いいものを作って見せる、見せたもので納得してもらえる、という部分に到達できるまでは、ただのひとりよがりと非難されても揶揄されても仕方ないし、それを受け止める覚悟はしているのだけれど。

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