*
- 莉江 藤田
- 2016年12月1日
- 読了時間: 1分
ひとに、自分の中にある何かを解ってもらう、ということは本来不特定多数のひとに向けてというよりも、もっとこじんまりとしたコミュニティの中、若しくは、個人対個人の間で行われるものばかりなのだろうか。
それは、パートナーであったり、親友であったり、親であったり、そういう、ごく近しい、というひととその疎通がうまく成立していさえすれば、基本的に、ひとは作ることで何かを言おうとなど、しないだろうか。
逆に、それがわかってもらえるひとがいれば、名目としての近しいひとは、必要ではなくなるのではないか、とか。
そんなことを思ったり。
Comments