「いのりのかわりにうそをつくこと」
- 莉江 藤田
- 2016年12月13日
- 読了時間: 3分

先日まで開催していた個展のうちの1つ、「いのりのかわりにうそをつくこと」 bunchコーナーにUPしました。(この写真は昔のもので、関係ありません) 会場では単体でよりも、もうひとつの展示と一緒にみて欲しかった展示ですが(内容には一切絡みはないのですが)webではこちらだけを。 webだと、一番見て欲しくて一番隠したかった部分は、なんだか削れてしまったように見えないのですが。 だから単体でもいいかなぁ、と。 難しいですね。 webで見せること。 bookという形は、一番安定してお見せできるから好きですが、サイズに制限はあるし、プリントほどの迫る感じは出せません。 枚数で見せることは一番しやすいですが、見開きという足かせはあります。片ページしか使わなかったとしても。 でもそれを楽しんで乗りこなそうとするのは楽しいから好き。 壁面は1枚1枚の間隔を自由にできることや、縦にも空間を使えること、枚数は限られても、見渡すように複数枚を一度に見ることも、1枚に近づくことも、ピンポン球のように視線をバウンドさせながら見ることもできる、好きなサイズになるべく近づけて、プリントで見せられる、そこが好き。 webは、知らない人にも届きやすい、そこが好き。 けれど、誤解でもって届くような気もして、少し怖い。 「誤解」というのは正しく理解されないことだけれど、それは生でみても同じじゃないかと思うかもしれない。 確かにそうなのだけれど、生でみて誤解されるのとはまた違う種類の誤解。 webに乗っかっただけでなぜこんなに変わるのか?は、わからないのだけれど、すっこ抜けるように大事な部分が抜けてしまう。
写真を流れで見せるのには本当に向かないな、と思う。 2枚1ペアとかの組写真ならそうでもないのだけど、写真と写真の間が流れない、うまく。 * 写真を見せること、続けれたらいいなと思うけれど、今一番悩んでいるかもしれない。 強く外に向けられたメッセージがあるわけではない。 ひとりごとのような写真は、自分にこそ必要だけれど、人は別に見なくてもいいはずのものだから。 美、というある程度共通の、誰しもが享受したいような価値には遠く、何か勇気を与えるわけでもなく、世界に干渉できているかよくわからない、わたしの写真。 見て欲しいと、年々言い難い気持ちになっている。 それでも、見せられるところまでブラッシュアップすることを目指しては、いる。
見て欲しい気持ちがないわけではないのに、見て欲しいとは言い難い。 自信がないとか、否定されたくないという意味でもない。 不要な人にとっては、「薬にも毒にもならない」にすら、まだ届くことができないと思うから悩む。 毒にも薬にもならない、は、けっこう難しい。 せめて世界に干渉できていれば、そうなれる気がする。 広く、多くの人に見てもらいたい、というなれば、彼らがいる世界と繋がっているべきなんじゃないかとか。 別に、どこにでもいるような30代の女をいくら掘り下げたって、彼らの多くが見たいものなどなにも出てきやしない。 どこにでもいるような人間のようだけれど、応用できるなにかを与えることもできないのだし。 どうやって見せることを続けていけば最良なのか。 人生の自由時間は思ったより少ない。 自分が見たい自分の写真を、自分のために撮り続けるつもりだけれど、見せる必要はあると言い切れないから、見せたいけど、見せていていいのか、わからない。 見せたい、が、見せていい、の理由になるには、まだなにか考え及ばない部分が残っている気がする。
控えめに見せることは続けながら、やっぱり、考えるしかない。
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