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渡航後、覚書1

  • 執筆者の写真: 莉江 藤田
    莉江 藤田
  • 2017年1月14日
  • 読了時間: 3分

京都へ越してすぐの頃、一番感じたことは「ここはどこなんだろう?」ということだった。

住んでいながらにどことなく地に足がつかない感覚が暫くあった。

今、メルボルンに来て一番感じる事はというと「だから何なんだ?」ということだ。

ここが外国だから何なんだ。英語だからって何なんだ。 だから、何?

違和感を覚えることは、寧ろ「違和感がなさすぎる事」に対して。

あまりに馴染んでしまっていて、一切京都で感じたような「ここはどこだ」とかいったことを感じない。

それも、初日から。

知らない土地にいる怖さが驚くほど無い。

「だからなんなんだ?」ぽかん、と、思う。

わたしは英語はほとんど話せない。

ヒアリングが少しできる程度。

過去、1回だけ記念のように受けたTOEIC、たったの300点ジャスト(去年)で得た点数はほとんどヒアリング。

TOEICはビジネス単語とか出てくるので、それ用の勉強をしたことがないわたしにはさっぱりわからなかった。

とはいえ中学生レベルの文法も語彙も怪しい。

文法に至っては自信の程はからっきし。

だけどそれなりにコミュニケーションは取れるし、英語でしか説明されない授業になんとかぎりぎりついて行っている。かなり、ぎりぎり。

英語を話し(とはいえほとんど単語をつぶやいているだけでもある)ていると、基本的に一人でいる時、頭の中が空になる。

話す時も簡単なことしか話さないし、日本語で考えて英語で話す、というより、英語で話す(ことになるかもしれない)ことくらいしか思考しない。

「寒いな〜」とか「陰ってきたな〜」とか「宿題夜しようか朝しようかどうしよう」とか「今日晩御飯何かな〜」とか。

子ども(幼児)に戻ったみたいに、「難しいこと」を考えなくなる。

あれはこうだからこうなんだろうか、とか、これってこういうことで、あの時ああしないでおけば・・・とか、考えなくなる。わたしの場合。

日常生活動作をほぼ瞑想状態の脳でやっているような感じ。

するとものすごく、時間が経つのがゆっくりになる。

「あ、23時か、そろそろお風呂はいらなきゃ」と、思っても、その言葉が実際頭に浮かんでいるかというと、日本語ででも英語ででも浮かんでなくて、それを煮溶かしたダイレクトな納得が脳にきて、それで行動する。

英語を聞いているのもそんな感じで、何を言ってるか10〜20パーセントしかわかってないのだけど、「多分こう言ってる?」と思って返事(YES/NO以外にも勿論)をすると、話は無事につながるので、取りこぼしは多いのだろうけど、主幹だけは汲み取れてるのかしらという気になっている。

英語を聞いて理解しようというより、相手の仕草や口調なんかから状況を音声なしの映像で見ているみたいに想像して話をしていても、そうそう間違わないらしい。知ってる単語を少し、キーワードとしてガイドにすることでギリギリ(多分)成り立っている。

100パーセント理解しなければならないような重要な話しなんてしてるわけじゃないし、単語だけでなく翻訳だって、わりとさくっとスマホで検索できる。会話は怖くない。

言いたいことを言うのに、機械翻訳にかけて大きく外れない日本語で検索をかけられる能力だけはなんとなく高めな気がしている。これは実際に検索しないとしても、わりと重要だと思う。

来て数日はやはり日本語が抜ける感覚が強くて、思考不能のようになっていたけど、今一度日本語を取り戻したのでこれらを覚書する。

 
 
 

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