渡航後、覚書2
- 莉江 藤田
- 2017年1月15日
- 読了時間: 2分
前日のつづき。 とはいえ同日に書いたのだけど、長すぎるので分断。
日本から出て英語を学びに来た、というのがわりと大きな大義名分だけれど、わたしはことばというよりも日本語に依存しすぎているし、日本語の日本語らしい文脈という枠組みの中でつくることをしていて、自分は2000パーセント日本人なのだと思った。
美術館で何かを見る時、シリーズとしてのもの(写真展なんてわりとそれだと思う)ではなくいわば常設展の、全体を通して特に何かの縛りや共通項目のあるわけではないばらばらのものの集合体を見るのでは、全く脳は違う見方をするし、後者には強い集中力を発生させない力さえある気がしている。
というか、「読もう」というスイッチを、手の届かないところへさっと避けられてしまう、みたいな。
わたしはこの「読める」にものすごく「(味覚の)美味しい」と同じ快感を感じていて、これが当分の期間ないままでいると、空腹感、ではなく飢餓感がする。
フィリピンでの6週間は本当にそれが強かった。
人間どれだけ脳の言いなりなのか。脳に快感を与えるための行動の多さってどれ程か。などと思う。
日本語に強く依存するからこそ書ける(読ませられる)ことは、書けば海外でどのように見えるのだろうか。
今日(日曜)、ビクトリア国立美術館で日本人による竹細工だとかを見てきたのだけど、なんというか、すごいなぁ、と思って見るのと同時に「海外ウケしそう」だなぁという感想が強くでてきた。
あとは「これが・・・いいのか?」(いや、別に悪くはないけどもっといいものっていくらでもあるのでは?)と思う日本画とか器とか。
若干思考回路が接触不良なのだけど、「読めない」展示を見て、若干疑問の残る鑑賞をしながら、ものすごく脳内は分断された。
けれど、写真集、となると不思議と「写真語」とでも言えそうな独特の言い回しが国内外を問わずして、「読める」人には「読める」ものとして届くのが不思議だ。
そこがわたしにとって写真って面白いんだけど、日本人以外の写真家の「(超)著名人以外」のbookなんて見たこたがないから、それがどの程度、各国の写真のなかにあるのかはとても興味深い。 海外で見てもらえても、この写真語が一切通じない(というか、「何か」ある、とだけ気づいてもらえるか否かというレベルでのことだけど)ところだと厳しいのかもしれないなぁ、と、思ったけれど、それは国内でも同じか。 わかりますか?よりも、聞こえますか?に近い問いを、ここメルボルンで、自分自身が居るうちにでできればいいなと思う。
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