渡航後、覚書3。
- 莉江 藤田
- 2017年2月16日
- 読了時間: 5分
海外へ、特に知り合いがいるでもない場所へ単身で向かって、孤独を感じる暇が一切ないことの有り難みに対しての言い草としてどうかとは思うけれど、今日はじめて一人になれた気がした2時間ほどの時間があって、安堵感に全身の力が抜けて涙が出そうになった。 帰宅した時、ホストマザーとホストファザーは急に出かけることになったようで、書き置きには9時頃戻ることが記されていた。 インスタントのおうどん(とはいえ味付けは和食のものではない)をちゃんと置いて出てくれていたけれど、賞味期限的にそろそろアウトな気がした食べかけの鮭缶(数日前にわたしの夕飯に付け合わせてくれた残り)があって、そっちに火を入れて食べた。 簡素な味付けにもひどく飢えていて、何故か今週は夕飯にこってりしたパスタ系が連日続いていた中、塩胡椒とレモン汁で食べた鮭がおいしくてたまらなかった。 誤解のないように言うと、わたしはホストマザーも、ホストファザーも、大好きだ。 彼らは親切だし、君も一緒に来る?と、彼らの予定にわたしが入り込むことも歓迎してくれる。 犬の散歩ひとつでも、そうやって誘ってくれると嬉しいもので、誘われたものはだいたいくっついていくようにしていた。 彼らが好きであること。 それはそれ、だけれども。 どうしたって、家に帰って、まずひとりっきりになれるあの瞬間のほっとする感じには勝てないかもしれない。 うれしくなって、ご飯を食べた後、散歩にでかけた。 家の前の通りは公園に面していて、その公園はとても細長い。 その細長い公園は、いくつか続いている。 細長い(とはいえ縦方向の距離もそこそこある)公園が、いくつか連なった形で、実はいくつ連なっているのかまだ知らない。 毎日、その2つを突っ切って駅に向かうのだけど、その2つのどちら側の端のさらに向こうにも公園は続いているようであって、なかなかそこへは足を伸ばせていなかった。 今日はその、行ったことのない片側に向かって歩いた。 未踏の公園に入るまでには8車線もある道路を渡った向こう側へ行かねばならず、見渡した限り、横断歩道はないので、車が途切れた頃を見計らって強行突破的に渡る。 午後8時半頃、しっかり夕方の暗さになってきたので早足で中へ。 そこは家の前の芝生のような公園とは違って、まるで雑木林。 整い過ぎていない美しさに、何故今までここに来なかったのかと後悔した。 今週末には、この街を出るのに。 メルボルンで一番好きな場所は、現時点、この雑木林になった。 わたしは整いすぎた場所が少し苦手で、たくさん美しい公園があるメルボルンなのに、一番雑然としたこの遊歩道のある雑木林を好きになった。 こちらに来て、実は、一度も自分で音楽を聴いていなかった。 散歩をした時、これまでも一度もiPodを持って出ていなかったようで(なんとなく音楽が聴きたい気分でもなかった)久々に手にしたiPodは、11月の個展の準備の時、ずっとかけていた曲が、未だその1曲のリピート設定のままだった。 わたしはそんなに音楽を聴く方ではないのだけど、いつから使っていなかったんだっけ。 と思いながら、そのまま再生。 いま、自分に足りていなかったものが、全部降ってきたみたいに、溝がうまったみたいに、なにかが沁みた。 その感覚に興奮して、誰もいない薄暗い雑木林で、その曲を大声で歌った。 端まで歩けるかな?(暗さが本格的になってきて)と、思った頃に端がきて、折り返し。 途中、脇道がすぐ道路につながっていて(雑木林とはいえ、細いコースで、すぐ横に車の走る道路が見え隠れしているくらいなので、薄暗くても突入できた)さすがに暗いし、と、道路に出たら、すぐそこにはまた別の公園。 だだっぴろい草っ原が広がって、一応、低い囲いがあるだけの公園。 はじの方にはズドンズドンと大木が、微妙な間隔で植わっていて、また、なんだかうれしくなってそのど真ん中を通りながら奥に進む。 日が長いオーストラリアの夏。 9時前にして、ほぼ、日が沈む頃そこにいて、樹のシルエットの向こうがほんの少しオレンジがかっているのを眺め、いよいよ、街灯もあまりないので帰ろうと引き返しはじめた時、だだっぴろい草っ原をずんずん歩いて、肌寒い風、どんどん暗くなってきて、犬を散歩させるひととすれ違ったけれど、ほんとうに久しぶりにひとりっきり!!!!!と、踊り出しそうに、その場でひっくり返って笑い出しそうに、膝から落ちてしまいそうに、なんか、安堵した。
なんでこんな、何千キロも離れたところまでひとりになれるところをもとめてやってきたようで、こんなにもそれに出会えないでいたの。と思うと可笑しくて悲しかった。 誰かの、知ったひとの気配が常にそばにあること。 集団で過ごす時間。 その有難さは頭では理解できるのに。 ヒリヒリするくらい、ひとりが大好きで、誰かに懇願したいくらいひとりにしてって、願ってしまう。 誰か、誰でも、のことが好きじゃないんじゃない、ひとりになれないと、頭がちゃんと動いているように感じられなくて、自分じゃなくなっていくみたいで怖いんだよ。 気遣いで自分を押し殺すようないい子じゃない。 単に脳みそが鈍いだけで、わたしはその鈍い脳みそとうまくやるために、ひとりでいる時間がどうしたって必要で、いつノックされるかわからない家の下では、個人空間があったとして、安堵できないのだと思う。 これだけのことを感じたのだけど、これだけのことを感じたと自覚し、文字にまで起こすことができなければ、すぐに消えてなかったようになってしまうのがまた怖い。 日本語が今日はあまり不自由なく使えるから、焦って文字に起こした。 まるで、記憶障害がむらになっている人が、未来の自分に宛てて手がかりのメモを残すみたいな。 「私の頭の中の消しゴム」を少し思い出す。 インターネット上にずっと人の気配を感じていることは平気なのに、実際の気配は、どうしてこんなに苦手なのだろう。 しあわせな暮らしをさせてもらっているホームステイはあと、2晩となった。 寂しいようで、少しほっとしている。
Comments