3月1日に考えたこと。
- 莉江 藤田
- 2017年2月28日
- 読了時間: 6分
なぜかわからないけれど、みんなが助けてくれるしわたしと仲良くしてくれたりする。
それは世界の今まで出かけたどこででもそうで、もちろん、全員、完全に打ち解けられるわけではないけれど、誰かしら、打ち解けられているかどうかはわからなくても、よくしてくれるひと、というのがいてくれる。
「あなたはいつも一緒の友達ってのがいなくて、映画を見るのはあのこと、ショッピングにいくのはあのこと、って、それぞれ別々の友達と行くよね」と、中学生とか高校生くらいの頃母にいわれていた。 わたしはそれを指摘されることそのものを何だか不思議に思った。全て同じ友達でなくてはならない理由はないし、それらをより楽しめる友達と、それを楽しむのが一番だとはじめから思っていた。 その人のなにが特に好きなのかを、注意深くみていたのかもしれない。
いろいろな分野で自分にないものを、素敵なことをもっている友達と居たかったし、共通項があると楽しかった。羨望で食らいつくようにしたかった(していた)友達もいた。
毎日詰め込まれるようで、ふつうのひとの乗れる速さにやっぱりついていけない。
わたしはほかと違うんだと悲しくなる反応をされることはあるけど、それは相手にとってはわたしをよく扱っているつもりだから、なんともいたたまれない気持ちになる。
そうじゃないの、って、いうと、相手を踏みにじってしまうから。
特別なんかじゃない、いやなほど知ってる。
怯んではいけない。
簡単にくるりと風呂敷で包んでくれて、扱われる感じ、好きじゃない。
でも相手はそれを礼儀だと思っていて、わたし自身がまだまだなんだとしか、結局思えない。 泥をあらって、小石をさがす。
ぴかぴか、白っぽいつるんとした砂利の少し大きいくらいの、粒。 そうやって丹念に探すことをわたしはよいと思うのだけど、大風呂敷でイージーに扱うことが今の世界では正解なのだろうか。 言われたいことを言うようにプログラミングするなら、ラケットの面は広い方がいいんだろうけど。 小さいラケットでボールに近づいて真ん中に当てていかないと、すぐばれるんだよって言いたい。
何かを思って撮ることをしている時はそんなになくて、撮りたい、とはすこし違うのだけれど。 ああ、今、無駄にしたくない作るモードがわたしのなかにある。けど、学校なんか行っちゃってる。それを少し寂しく悲しく感じると同時に(ほら、やっぱりわたしはこの枠組みから出られない、と、思い知るから)それを守りながらでもやれるようでいなくちゃと思う。 けど、実際のところ、頭がパンクしそうでこれを打ち込み、学校に遅刻してしまっている。
こんな、遠いところへきてもひとりになれない。
ひとは沢山まわりにきてくれる。なんでかわかんないけど。日本にいるよりずっと、国外にいたら、誰か側にいてくれて、誰か、助けてくれて、っていう、「誰か」が沢山になるし、ひとと一緒に過ごしたりする時間が長かったりする。
国内にいるときもわたしなんかを助けたりまもったりしても何にもならないのに沢山だれか助けてくれるけど、こんなに誰も彼も助けてくれて、ということは、わたしが多少なりと心細さがあってそう感じるわけではなく、ほんとうによいひとばかりに巡り会える。
だから、それなのにひとりになりたいのにうまくなれないとかぼやいてしまう自分がいやになったりもするし、この小さな器には、その親切が盛りきれなくて苦しくなって逃走したくなるのかもしれないとか考える。 わたしは相手になにもしていない、と、それに気づいて、でもなにもうまくできなくて苦しい、とか。でも、本当はしてくれたり想ってくれたりすることに、それをされて感じた気持ちを見せることをするだけで十分であることも逆の立場から知っていて。でもやっぱりくるしい。
彼女たちが、今なにを創っているのかなって少し想像する。彼女たちはわたしのこともわたしのつくるものも、少しも好きじゃないかもしれない。それでも、いい。 月とか太陽とか、そういうものをなんとなく、毎日こんなに意識せずに恩恵を受けつつも、ふとしたときにだけだけど、拝みたい気持ちになるような、そんな感じにもにている。
ふつうのなかにいると、ふつうにしていないとつらくなっちゃう。
飛んでしまったとき、そのまま飛び続けることができない。
そうしてもいいけど、そうすると社会不適合者となってしまう。のを、知っている。
自由勝手をすることがしたいんじゃなくて、この一瞬の、一瞬しかない超状態を勿体ないと思っているだけなのだけど。
だからわたし、どっちにもいけない狭間の生き方しかできなくてしていない。
いつも、いつも、通信を試みている。電波を拾おうと思って、くるくるとダイヤルをまわしている。何かの拍子に通信が開始されて、ああ!やっと話せた!と、気づくと勢いに任せて流し込んでしまう。 自分自身の奥底の部分から、繋がった瞬間だけダクダクと言葉が流れてくる。 普段、なんでこれはこうなんだろう?とか、自分は今なにに困っているんだ?とか、あの時感じた違和感は何だったんだ?とか、そういう事が文字通り無意識のうちに無意識下に追いやられてしまって、思考に登ってくることがない。 けれど、何かの拍子に突然それらが解と共に流れてくるということを知っている。 いつつながるのかわからないその通信を、半絶望的に捜し当てようとしている毎日。 けれど厄介なことに、その捜し当てようとしていることそのものも、時に忘れてしまうのだ。
しかも、折角通信が繋がっても、ふつうのかおをしなきゃ、と、人と話すだけで通信は切れてしまって、通信を繋ぎっぱなしにはできない。 あまりに弱い電波を回収しているし、向こう側とこちら側はお互いに常に宇宙空間で揺れながら、ひろいあてた電波を全神経を集中してお互いがダイヤルを合わせ繋ごうとしてやっと話せるのに。 今からわたしはまた次にいつつながるかわからないこの電波をまた、それぞれが漂うままに流してしまわないといけないのか、というこの心細さ。 ただでさえつかまえておきたい言葉がながれていく。その流れていってしまって、あわや捕まえられないんじゃないかというところでなんとか捕捉するこのぎりぎりのこわさを、切迫感を、この髪の毛よりも細い電波に頼らざるを得ない心許なさを。 そのことを知っていてなお手を離すのだから、名残惜しさで狂おしい。
流れが見えているときはまだいい、捕捉できない、流してしまっているぞ、と、気づけるならまだいい。 何週間も何ヶ月もなにも流れていないところを歩き続けるのは怖いのだ。 わたしはわたしを忘れそうになる。
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