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- 莉江 藤田
- 2017年4月3日
- 読了時間: 4分
もう何年も何年も燻らせていることに対して、最近大きな驚きと怒りと諦めがわっと押し寄せて疲れてしまった。 10年すら近い昔のことだけれど、赦せない想いでいることがある。 今までその10年近くをかけて、その間も何度も自分を縛ったり歯を食いしばったり宥めすかしたりして、なんとかかんとかやり過ごしてきたことだけれど、それだけの時間をかけても完全に鎮火することのない気持ちなので、一生、わたしのお腹のなかのどこかは怒っている。 その感情は、わたしのなかで一番複数のわたしが、それぞれの立場だったり、理性だったり、事実と憶測という線引きだったり、いろんなものがまぜこぜになりすぎて、怒りというものにしかならなかった、というような意味合いで「怒り」がここにある。 複数の色を混ぜたら、黒に近づく、ようなことで。 その怒りを持っているせいで、逆鱗というようなものがわたしのなかにすっかりできてしまって、異様に怒りの感度が高いモノゴトがある。 自分を厄介者にしかしないのを解っても、それでもどうしたって、今の自分のパーソナリティのなかでその赦せないモノゴトはひとつの役割をもっている。 そこにもし怒らなくなってしまえば、そんなわたしはもう、わたしではない気がする。 複数のことに同時に怒りすぎて、糸が絡まって解けない。 砂もホコリもかぶっても、未だに怒りはアクティブ状態で、ふとすると一瞬で飛び散れる力を持っている。 いい加減、忘れなくてもいいけれど、自分自身に手がつけられなくなるほど怒るのは、もう、辞めたい。 これだけの怒りを身にプールしておくことができるわたしだからできることがあるのも事実で、だからこそここまで足を進めてこれたような気もする。 けど、ここまで、というのは、すごい距離を進んだという意味ではない。
ひとに助けてもらいながらなんとか来た道。 でも。怒ってなかったら、ここまで来られなかった。 そう思うと、ただひたすらに悲しい気持ちにもなる。赦せないのは当然でも、そんなものの力で走っている自分に失望したりした。 でも仕方がない。そこはわたしの一部に他ならないのだから。 *
100度となく繰り返した自問自答のなかで、もう声をあげて、なにかを糾弾したい気持ちを押し殺してきたけど。その気持ちは不死身なようで、死ぬことがない。 怒りすぎて、もう、くるしい。 *
こうして怒ったって何にもならない。 原因を作った相手に直接言えばいいのかもしれない。 けれど言ったって何も変わらないし、すっきりするとかそういう次元の問題でもない。 解らない、伝わらない、というのは理解力の問題だけではないから。 「絶対に」分かり得ないだろうから、こんなに怒ったし、こんなに勝手に怒っている。 わたしはそうしてひどく怒っているけれど、呪ってはいないし、怨んでもいない。 そして何よりも、新たなエピソードが欲しくない。 それはわたしを更に怒らせるか、今と変わらない怒りを持ち続ける確信しか紡がない気がするから。 もともとある意味で何も悪くないから、謝罪など意味はない。 そして、謝って済む問題ではない。 * すっかりこの怒りは、ひとりの人間や、あったモノゴトを超えて、似通った人やモノゴトやに対する怒りも巻き上げるようになった。 きっかけの人間が居なかったら、そんな人々に怒りを向けるなんてこともなかったのかもしれないが、はた迷惑な話なのは何に対してだろう。 全て、だろうか。 だとしたら、謝らねばならないのは寧ろわたしなのかもしれない。 とはいえ、その怒りに蝕まれている感覚は不思議と無く、喉の奥に引っかかるような、もしくはズンと重いなにかを胸やお腹にもっている心地がするだけで、自分を善いものに押上げることはない気持ちだけど、それに引きずり落とされることもあまり感じない。 そこまでは拘れない、そんな、くだらないことに。 それが解りきっているから、怒りは忘れることはないけれど、それに構っているほど暇でもない。 時々、なにかをきっかけに再燃してしまうけれど、そうでなければ、口唇ヘルペスみたいに普段はおとなしいのだ。 こういう気持ちや状態に、名前はあるのだろうか。
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