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  • 執筆者の写真: 莉江 藤田
    莉江 藤田
  • 2017年4月6日
  • 読了時間: 2分

たいしたことではないのに、すごくこういうところで心が折れそうになる。自分が過剰に音から逃げたいし、あまりそれが理解されないことを解ってるから、多分居場所がないみたいになる。 理解されないだろうな、と、いうことを、そうと見当をつけながら話さなくてはならない時、ひどく虚しい。解ってくれないということそのものが、虚しいのではない。95%解ってるのにそうしなくてはならないそのことが虚しくさせる。5%に期待などしない。 期待ができないから虚しいのかもしれない。 否、期待してないことじゃなくて、例外を認めるという意味で5%のあそびがあるだけなのに、まるで期待しなきゃいけない、みたいなそのことが痛い。 そんなに何かをわかってほしいつもりでもないのだけど、わかってほしくてたまらないのだろうか。諦めすぎただけで、わかってほしいのだろうか。

わかってほしかったのだろうか。

もうそれすらしんどいんだけど。 本を読みたいのに、こんなんだからなかなか本が読めなくて、読みたいけどものすごく頑張らないと読めなくて、読んでいるのに遮られるととっても挫ける。というのは至極勝手なのだ。それはわかってる。 勝手とわかってることをわかってないみたいにしなきゃそれができない、みたいなそのあたりに情けなさとか、惨めさとか、虚しさとかある。

前みたいにできない、を認める、とか、そのあたりもくるしい。読書は楽しいのに、その過程が今は自分のみたくないところを沢山見せる。 子どものころ、自分で自分がぐずるという感覚はわからないけれど、大人になると、これはあの頃ぐすってると大人に思われていた状態の気持ちと同じだ、と、わかったりする。 必要以上に罪悪感を感じることなく生きるために忙しくしていたところも認めざるを得ないけれど、忙しくしすぎることに罪悪感もあったし、ゆっくりすることにも結局罪悪感がついてくるから、罪悪感は何に付随してるのかよくわからない。 こういうどうでもいいこと考えていられるのが、平和ってことだとわかるから、ブランケットにくるまってソファでちいさくなってしまう。 自分にとってしか重大ではないことも、全然、なにひとつとしてまるでくだらないことであることも、わかっててそれにずくずくと肩まで埋まっているのはぜいたくな事。 暇人にしかゆるされない遊びだ。

 
 
 

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