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今の生活は、野菜を育てる時の摘心のようなことをしているような自覚がある。 少し遅すぎた摘心だけれども。 ヒトとヒトとの意味のあるようなないようなやりとりを、無駄だとぶったぎってきた自覚がある。 全てではないにしても、随分と。 実際、これまで実ったものがどういうものだったかは自分では判断しきれないのだけれど、伸びたい一心で、脇芽を増やす余裕なく、ただただ自分が上だと思っている方向へ茎を伸ばしてきた。 葉を茂らせるような余裕はなくて、随分貧弱な茎だと思う。 随分と今、腐っているし、くすぶっている。 いずれ、長い目で見れば効いてくるのだろう、という気がする。 そういうシタゴコロで、腐ってくすぶっているのはわかっているのに、敢えてこの場を脱しようともしていない。 最近、ふとしたLINEでのやりとりの雑談の隙間に、母にたずねられたことがある。 「最終なにがしたいん」 それだけ尋ねられたので、どういう意味か聞き返すと、 「人生で」 という、ふと聞かれたにしてはあまりに大きい規模の質問でびっくりしたのだけど。 「写真集の出版と、健康の維持と、元気な限り展示」と、答えた。 「こどもをもちたい」 というのは、迷って、なんとなく言えなかった。 夢だけれど、もしかすると諦めるかもしれない気もするから、ぬか喜びさせないように。 ある意味、写真のために生きている。 というのは、写真を撮ることを目的にしているわけではないけれど、 写真が撮れるように生きていくことは、 わたしの人生を一番ゆたかにすると思うからであって 写真そのものはわたしをしあわせにするし、 写真の活動ができるように生きる、という基準は、わたしにはとてもいい基準になると思う。 思っている。 いつだって写真は撮れるはずなのに、 写真を撮れない生活がもしあるとするなれば、余程のことだと思う。 どんなに忙しくても、よい景色の見える部屋に住んでいれば、 定点観測をするでしょう。 どんなにイライラする仕事をしても、通勤をしている限り外に出るから、 何か、には目をひかれるでしょう。 なにをする気にもなれないなら、そういう自分を確認するために わたしは自分にカメラを向けるでしょう。 だから、わたしは写真に出会えてよかったと思ってる。 すっかり色々踏み外してしまったかもしれない人生だけれど。 今これを見ている、見ていた、ということを、時々提示できるように生きていくことができれば わたしは十分しあわせだと思う。

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