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最近、何があったんだっけ。 この2週間くらい、記憶が薄い気がする。 日記を見返せばそれなりにふつうの毎日だった。 寧ろ、一時期よりも、少しは色々マシだった。 自分が今、割とすり減っている、という実感が強く出てて、実際に辛いというよりか、その実感が辛かったような。 ネット時間を90%〜50%位減らした。 暫く楽になった。

なんとかなるだろう、と思ってきたこと。 「なんとかする」のは自分だったな、と、思い出した。

痛いものだ、なんか。

この部屋で、真夜中、ベッドに横になりながら本を読んで たまに、前の通りを車が通ったり、明るくなる前なのに鳥が鳴いたり それを聞きながら、自分は以前長く住んだ家のベッドの上でおなじようにそれを聞きながら 本なんか読んで、おんなじ気持ちだったなぁ、と思うと、 いま、まだあの部屋にいるんじゃないかな、って気持ちにならないでもなかった。

生活が安定する、ということ。 繰り返す毎日に不安がないわけではなくても、大きな不満とか、終わりとかは見えない頃、あてにならない「なんとかなるだろう」を漠然と思えること。 目を閉じて、見えるのは働いていた病棟だ。 あのころも辛いことはあったけど。その辛いことを支えてくれていたものは、今随分と減った。 今というか、暫く前に、こちらに来る前にも、来てからも。 けれどもまぁ、「来たから」減ったわけでなく、それはどっちでも同じだったし、寧ろ来ていなかったら、もっとまともに食らっていた何かがあったと思うから、距離はあってよかったのだけれど。 一度、まもられることを知ってしまうと、弱くなるもので。 誰も助けてはくれないと思っていたころの方が、ある意味楽ではあった。 「誰も助けてはくれない」「誰かは助けてくれる」はおなじ場所にあるけれど。 そして「助かりはしない」も。 「助からない」と思えてならない時点で、助かる道はない。 生かされることはあっても、助かるのとは違う。 誰がでは助かったように生きられるのかといえば、そう思って生きているひとだけだと思う。 介入しないでほしい、と思うひとからの介入は相変わらず、誰からも介入されないより辛い気がする。 それはでも、最低限以上に、わたしが大事なひとからの介入を受けているから思えることなのかもしれない。 言葉が通じない それは、英語で話している時よりも、日本語を話している時に強く感じる。 わたしとしては、話が通じないひとたちのなかで大人になった。 けれども、みんな優しくないわけではなかったから、自分がちょっとばかしおかしいんだなと 思って、それ以上は考えなかったし まれにそれでいても、言葉は通じなくても、気持ちはそこそこ通じることがあったりだとかしたし。 けれど、よりただしく言葉で話そうとした時に、より、遠のく感じはなきにしも。 だから翻訳する、伝わりそうな言葉におきかえて話す 続けると、胸が巣食われてるみたいな気持ちになる。 だからもう話したくなくなる。 その回路が断たれていた時間は、救われていた、のだろうと思う。 言葉が通じないひとと話すのに、そうやって自分の言葉を翻訳しているみたいな時 嘘をついてるのに似た感じ。 的確な英単語を知らなくて、無茶振り翻訳するのとはわけが違う。 自分の言葉で話がしたい、というのは、わかり合いたいだとか、知ってほしい、というところに留まらないんだよ、 というそのことの意味を まずわかってもらえないと、もうお手上げで。 自己表現の欲というのは、そんな枠には収まらないと思っている。 人が好きでないと、表現などしない、どこか、誰か、わかってくれと思う気持ちがあるから、というのも理解はできる。 けれど、それだけではない、同じくらいか、それ以上に大きい気持ちがないと、こんな狭間で、立っていられない。 ひとりになっても、ひとりということを確証してしまったとしても、 言いたいことというのは、あるものなのだ、時々、ひとによっては。

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