*
- 莉江 藤田
- 2016年9月13日
- 読了時間: 2分

数年前、ともだちに言われたことがある。 「りえちゃんの写真は、暗いところから明るいほうをみているような気がする」 みたいなことを。 なんとなく思い当たる、そんな気がして時折思い出すことば。 いい意味でも悪い意味でもなく、そのことばをわりとだいじに懐にもっている。 このところはそうでもない写真も増えているけれど、根本にはきっとそういう部分が多くあったのかもしれない。 暗いところから明るいほうをみるのか、明るいところから暗いものをみるのかどちらが幸せかな?と一瞬考えたけれど、立っている場所の足元と空をみあげることが、結局いいんだよなと思い直す。 ある意味、どこだって同じだし。 劣等感、無能感、トラウマ。 そういうものとたたかってみたり、手を組んでみたりするけれど。 自己肯定できないわけでもないけれど、体得したというより理解して活用できるだけなので、かなり後天的な自己肯定能力なのだろうなと思っている。 感覚的に思うのは、自然な自己肯定感の習得も、きっと臨界期があるのだと思う。 (自然な、というのは語弊があるけれど) ここでいう、立っている場所とその空を見上げることが出来るひとは、きっとそれが出来ている。 けれど、決してその人たちが一般的であるとも思っておらず、寧ろ大多数は逆なのだと思う。 大馬鹿と天才。どちらにもなれない自分は、やはり一般の一部で、「ふつう」で、立っている場所にはないものを探してしまうのだろうなと思う。 ループ。
Comments