雑記というか覚書みたいな
コンセプチュアル、というほどコンセプチュアルな写真は撮れ(ら)ないのだけれど、比較的それに近い思考回路で以ってつくるものを含めても、自分の場合、ほぼ全て「あ。」という地味な衝動からくるスナップであり、ブツ撮りさえも、ブツ撮りと呼べるような、そのものをどう見せたくてどう撮るのかという辺りまでの思考と過程なんかがあるわけでなく、多少光や背景を気にする程度のものでブツ撮りとも呼べない。
そんなエセブツ撮りやセルフだって、だいたい「あ。」で全部撮っている。
個展の準備に、今回準備している写真を見ながら気づき、その気づきを得た状態で撮れば、わりともう、次のステージに片足突っ込んでしまって、戻れない。
常に進んでいるといえば聞こえはいいのかもしれないけれど、実際は螺旋階段のように、くるくると狭い範囲を移動しているような感じがする。
登っているよりは、降っているイメージだけど。
平地をどんどん進んでいる気がしても、広野を進んで荒野を進んでいる気がしても、そんな壁紙の貼られた螺旋階段をただただ騙されたように降っているにすぎないらしい。
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写真を編むことが難しい。
いろいろなものが写っている。
同じものを連続で撮っても、1枚目に写っているものは2枚目には写っておらず、3枚目には「なんにも」写っておらず、4枚目には真逆のことが写って、5枚目にただそのものが体良く収まっただけの写真ができたりする。
長い時間の写真を感覚で細分化して(同じ波長のあるものをピックアップして)並べてみると同時期に内容が真逆の写真を撮っていることも少なくないし、無意識で「あ。」と思うものの7割にカメラを向けてシャッターを切るだけの日々。
きれいなものもグロテスクなものもかっこいいものも、つまんないものも、「あ。」と思えば撮る。
ある程度時間か枚数が溜まったころに「よいせ」と腰を上げて写真のなかにとっかかりとひっかかかりを見出してある程度のボリュームにしようかと思う時。
個展をする時かbookを纏めようかとする時。
そうやって纏めた出汁っぽいベースを舐めてこれからを決めるのに、舐めてしまって感じた味からたりない味と欲しい具材を撮り、適切な言葉を添えることまで完遂できるというのはやっぱり難しいから、一握りだから、続けなきゃならないし、忘れられない程度には発表し続けなくてはならないし。
大きなテーマと小テーマの平行は常に必要なのだろうし、時間との戦いでしかないのかもしれない。
ずっと連続することを撮っている。
目の前にあるのはいつだって自分の目の前にある光景で、新幹線に乗っても飛行機で飛んでも、映画のような場面展開は起こらない。
電車のなかでずっと足元をみていても、飛行機のなかで映画を見ていても、ずっと連続する。
わたしの目の前のどこかを撮っている。誰だってそうだ。
差異をうめるのは、ある程度、機会(枚数)なのだと今更に思う。
写真を編むことは難しい。
フィリピンでの写真をbookに纏めたこと、本当によかったと思う。
フィリピンという土地にいた時間、という限定だからできたこと。
こういう縛り方でないと、なかなか、やっぱり、難しい。
けれど、それだからできたことだとしても、できたことというのは、大きな財産だ。
そうではない時間を個展、としてひとつの完成されたものとして切り出すこと、苦しい。
壁面に展示をするしあわせを少しは知っているけれど、壁面を活かし切るのには、自分の場合、かなり、切り捨てるものが多いのかもしれない。
活かし切りたい気持ちがあればあるほど、ぎりぎりと歯を食いしばって捨てるものがすごく増える。
壁だからしたいこと、と、単に写真で言いたいことがあること、の優先順位。
ただの土壇場の覚書。