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「アパートメント」のレビュワーのこと。

  • 執筆者の写真: 莉江 藤田
    莉江 藤田
  • 2016年12月19日
  • 読了時間: 6分

「アパートメント」というwebマガジンがある。 数年まえにわたしもライター(住人)として2ヶ月の連載をさせていただいた。

今はレビュワーとして、カマウチヒデキさん(長期滞在ライター)の月1(毎月20日0時更新)連載のレビューを担当させていただいている。

カマウチさんには出会ってからの数年、いろいろお世話になっていて、頭が上がらない。

写真も文章もぺーぺーな自分が、写真も文章もできる人のレビューをやるなんて無謀だと、レビュワーの依頼を管理人さんからいただいた時にたじろいだけれど、ご指名をいただけたことなので(わたしでいい、ということなのなら)やらせていただくことにした。 自分がレビュワーとなるまでもカマウチさんの記事を毎号楽しみに読ませていただいていた。

読めばもちろんいろんなことを思う。

考えもしなかった視点からの考察も、純粋に知識も、他愛のない話も、ふんふん、と読み、新しくなにかを得る。 けれど、それを「思う」から「思ったことを言う」となると、大きなステップがあって、自分が感じたことや考えたことを曖昧には置いておけない。

ひっかかったところに「今、なぜ自分はひっかかった?」と、いちいち問うてゆかねばならない。

ふわっと、1本、髪がくっついてるくらいの違和感に気付いて、その根元を辿らなければならない。

この「感じ」、何の時に感じたっけ?という、自分の中に感覚として湧き上がった触感のデジャブが入った引き出しを探さねばならない。

それらは結構、大変なのだけれど、レビュワーをさせていただいていることはものすごく為になっている気がする。

ここを読んでくださっている方がいればご存知な通り、わたしにあまり文章力はない。

書くのは書くのだが、どちらかというと、言いたいことを言おうとする根性だけで書いている。

読ませる文章を書ける方々とは大きな違いがある。

毎度のことで慣れてきたとはいえ、人の文章のレビューだなんて緊張するし自信はないのだけれど、自分の役にはものすごく立っていて、ありがたいことだというか、いいのかなこれで・・・と思う。 よい記事だから広く読まれてほしい、そのきっかけに貢献できるレビュー、、、という本来の目的には程遠いのかもしれない。 読まれてほしいから一生懸命考えて書くのだけれど、逆効果だったらどうしようとかハラハラする。

書かせていただきつつわたしは育ち、記事は見過ごされてたら、とんだ恩を仇で返す行為である。

毎月20日、0時。 記事は更新され、レビューもじきに、アパートメントのFBページで流れる。 ちゃんと、ふじたに別段興味が無い人にも届いているといいな。

FBのアパートメントページをフォローすると、記事の更新のお知らせはレビューがくっついた形で流れる。レビューはそこでしか見れなかったんだったかな。 今回の話、視覚と脳の話ってすごく写真と密接に関わってるのに、こんな視点で話す人をわたしはほかに知らなくて、読むと随分考えることが多かった。 ここはわたしの個人HPでありBlogなので、ふじたを知っていてカマウチさんを知らないひともいるかもしれないと思って、今回のレビュー・本文へのリンクを以下に転載してみます。 今回は過去の記事の「ソシュール・サイクリング」も話題に再登場しているのでそちらの記事もレビューを別につけてみました。 今初めてカマウチさんを知った方がいれば、カマウチさんの記事、過去のものもいろいろ遡ってみてください。 撮っていただいたふじたも、時折登場させてくださっています。

普通に生活している時に「見ている」のと、意図的に「見るをしている」とは、また全く違った回路を使っている気がする。

「見るをしている」時にだけ、ひとの脳は錯覚を起こすのではないか、とか。

例えばカニッツァの三角形とか、だまし絵とか、3Dに見える仕掛けとか、ぱっと見ても、そこにそれらがあることを知るために目で軽くおさえたり、撫ぜたりするだけでは「見えない」のに、「見るをする」と見えてくるものたちがある。

「写真とはからだを置き去りにした視覚だ。」というのには「おお!」と思うのに、わたしたちが写真を「見るをする」と、結局その感じを味わうことはできない。

撮影する時には、その誰かの身体がある。 誰かの眼と、その身体が「見るをする」をしている時に撮っている(見ずにも撮れるし意図的に何かを誇張も出来るけどそれは今おいておく)。

けれど、自分が撮った写真を後から見ても、実際「見て」いたよりも膨大な情報が写真には残されるから、改めて実物となった写真を「見るをする」と新しい発見がある。

それでもその時すべては「見えて」いなくて、時間をおいてその写真を見た時に、その時見えなかった(注視 しな/できな かった)ものが今度は見えたりもする。 脳が得た視覚情報から補完するものが「見える」ようになることもある。

永遠にわたしたちは視神経にだけはなれないからこそ、脳の補完をなかなか止めることはできない。

写真にはあるものしか写らないが、ないものがあるように写すこともできる人には出来るし(見る人の脳の補完を掻き立てる要素を仕掛けることがそういうことなのかと思う)、画のためにそれまではそこにない世界を用意したり(石ころひとつ動かすこともそうだ)、機械の設定で眼に見えるもの以上の情報を集めたり逆に幾らかを破棄した状態で固定させることも出来る。

それらを豪快にしょっぴいたとしても、まだなお写真を見て「おもしろい」とか思う思考回路は成立するのではないだろうか。

よそよそしさや虚構であるとも感じる人もいるといわれながらに、こうして写真に魅了される人々が絶えないのは、この脳と視神経の関係が大きく関する仕業なのかもしれない。 そうと思うと、こうして写真を撮る人間がそれについて考え話すことは至極当然なようで、わたしが無知なだけなのか、あまり知らない。

今回、特にレビューはまとまりなくしめてしまって申し訳ないのだが、話にもでてくる「ソシュール・サイクリング」もあわせて、というか、今回に限らずだけれども考えるきっかけをいつもありがたく思うばかりです。

http://apartment-home.net/long-visiter/aozora/

子供の時から不思議に思っていたことを思い出す。

「動く歩道」に乗りながら歩いている時、当然ながら普通に歩くよりも速度が出る。

視覚がそれに慣れる頃、「動く歩道」に終わりが来る。

降り立って普通に歩き始めた瞬間、びっくりするくらい足が重いと毎度、感じる。

実際に歩く速度は同じ=足にかかる負荷は同じ。

でもカマウチさんの話を聞いて思ったのは、視界はその負荷・速度で得られる距離(成果)を、上書きしてしまったのかしらと。

視界をぼやかして、脳への情報を少し遮断してやる事とは少し違うけれど、近い話かなぁなんて思ったり。

 
 
 

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