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  • 執筆者の写真: 莉江 藤田
    莉江 藤田
  • 2017年2月9日
  • 読了時間: 3分

一時期まで、自分の中で数年をかけて育ててきた良心、みたいなものの一部が、どうしたって抗えない生理的拒否反応に引っ張られてしばらく前に折れてしまった。 勿論悪に手を染めたわけではなく、特別気をつけて努力しよう(それは自分のウイークポイントであるからと自負しているが故に)と、いうようなことが、限界の限界まで頑張ったつもりで、あともう少しでどこかへ逃せそうな切迫感を爆発させてしまった。 そのことがすごく自分を落ち込ませている。 実際に落ち込んでいるというよりか、雲がかかったようになって、自信をなくしてしまったのだと思う。 頑張りたかった、もう少し。 けれど、頑張れなかった。 せめて音を立てずに折れていれば、こんなに落ち込まなかったと思うし、そうすることができたはずなのに、大きく狼狽えて醜態を晒したことが、どうしたって自分を落ち込ませる。 一人で折れることのほうが気楽で、きっと折れてもいずれ立ち直ることができるのも知っている。 何故ひとりで頑張れなかったのかと悔やむ。 一人で折れた傷は自分一人が立ち直れば済むけれど、隣の誰かに折れた自分の枝を引っ掛けてしまったのなら。 相手がどんなに痛そうでも痛くなさそうでも、もう忘れても忘れられなくても。 実際、が、わからない。だから、いつまでも痛いんじゃないかと思って、こちらも痛い。 誰か自分の大切な人がひとりで折れていたならば、それは知らずにいることを辛いとも思うけれど、弱さを見せる辛さもまた理解できるが故に、わたしはあまりひとの弱さの糸を解こうとは思わない節がある。 少し話が逸れた。 自信、みたいなものがない時、なんというか。 自信がない時になにが一番よくないかといえば、自分のよいと思う行いをすることを躊躇い、行動が緩慢になるところがひとつあると思う。 自信がないときは、何故だか「いいこと」をしようとする自分と実際の自分の認識にギャップができるからなのか、「いいこと」に対して消極的になる気がしている。 いいこと、とか言っても、当たり前のことなのだけど。 ちょっと困っているしらないひとに、5秒のお手伝いをすること(押しにくそうにしているボタンを代わりに押すとか、落としたものをさっとひろうとか)に、このところ一瞬の躊躇いを生むのはなんでかなと思っていた。 「自分がそんなことをするなんて」みたいな、そんな感じだと思う。無意識下で。 自信がある時はもっと自然にできていた。 言語化できないと認識ができない。 英語の上達よりも難しいのは日本語能力の維持だ。わたしの場合。 拙い英語を使っている分、脳が処理できる感情も感覚も拙い言語で処理される。 単純化して話す癖、細部を省略する癖、それらがもたらすのは、わりと大きな感情の欠落な気がしている。 日本語が欠落していくと、こうして自己認識が緩慢になってよくない。 日本語を必死に使おうと思う。

 
 
 

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