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数日間考えていたあれこれ。

  • 執筆者の写真: 莉江 藤田
    莉江 藤田
  • 2017年2月28日
  • 読了時間: 5分

わたしは決して強い人間でもないんだけど、弱い人間というわけでも多分ない。どこに強さがあるのかなぁ、と、考えると、弱くない、という強さしかない。弱くない、は、弱くないだけで、強さではないかもしれない。悲しいこととか、辛いこととかの骨に鉈を振り下ろして、体積そのままでも、折り畳んで箱に詰めるように小さくできる。それがたぶんわたしの強さ。でも、これができることは強味なんだけど、やっぱり強さでもない。自らの一部に鉈を振り下ろす力だけでは、強いとは言えない。もう少し自発的な強さがほしい。 こうしている間にだって、刻々と残り滞在時間は減っているが、なんというか、観光はまたいつか来れば出来るだろうから、寧ろ何もしないができるのは今しかなくて、わたし割と何もしたくない。 そう思う辺り本当疲れていたのかもしれないけど、そんなに疲れてたつもりもない。けども、何もしたくないなぁ、って、思って本当に何もしない、って日本でやるのは本当難しいと思う。どうかな。 ゆっくり寝る、趣味で勉強する、朝起きて夜眠る、自炊する、散歩する。それらが当たり前に出来ることは幸せで、ここから先の人生あとずっと、おばあちゃんなるまで走らなきゃならない気がしてて、この何もしない時間がどう言いようもない幸せに感じる。 ずっと、なにもしたくないよー!って、思いながらも、◎◎しなきゃ!とかそういう意識を十年以上持ち続けてて、もうほんとう、そろそろこうしたかったんだよ。本当に今しあわせ。なにもしなくたっていい。 次走りだしたら、もうお終い、て気がしてならない。 お終い、でもいいんだけど。 あのずっと走ってる感じも、嫌いではない。 でももうそろそろだめになりそうだったのかもしれない。 だめになったってだめにはならない、を、知っているし、それでもまだ進むことは解っているから。 お終いはお終いだけどお終いではない。死ぬわけではない。 何かを作ることはわたしを癒すけれど、虫歯の治療みたいに、病んだ部分だけを取り除くのは難しく、少し、健康な部分も削られてゆく。取り除くことはできるし、別の部分の健やかさをもたらしたりするけど、やればやるだけ、確実に減ってゆくことがある。そこを癒やしにきたのかもしれない。 誰もが皆走り続けていることはわかるのだけど、多分わたしは自分のペースをうまく作ることができなくて、急ぎすぎてしまう。 実際ははやく走れてもいないけど、エンジンふかしすぎるくらいふかさないと走れないから、沢山沢山無駄があるんだろうな。 お風呂につかった後、あったかい静かなへやで横になって、全部忘れてうつらうつらしていたい。 おばあちゃんになったら嫌でもそうなってしまう日が来る可能性が極めてたかいこともわかっている。幸せは沢山知っているし、なんかもう既に一生ぶんの幸せを貰いきってしまった気がするから後が怖いのもある。 足るを知る、ということを大切なことと思うけれど、もう足りてしまったと思うと先が見えなくもなる。だからできないことをできないと知って、まだ足りてないと自覚して、次を見つけて、見ていかないともうそこで終わりたくなりそう。 充分幸せなことと、自分はなにもできないのを思い知り続けないといけないことは同居できる。同居はできるけどふれあってる部分はお互い蝕まれるようになる。二律背反するものをそうやってぜんぶくっつけて持っているから、どこもかしこも、継続的に小さく蝕まれ続けている。 とても大変。でもそれがデフォルトだから、今こんなことになってしまった。このままこれを引き連れて生きてくことは、やめてもいいけど、多分このまま。 ありがたいとか嬉しいとか、しあわせ、とか、そういうポジティブなポジションの感情は、なんかわかんないけど、姿は消えても質量はわたしの中に残っていて、目隠しをされた時手探りするみたいにすれば、その存在はまだ自分の中にあり続ける。 楽に横になったとき、それを確認したらおなかや胸のあたりが重くなる。 気づいたら窒息しそうに沢山あって、悲しいことつらいことみたいに外に放り出す手段がない。悲しかったことはだんだん水分を失ってすっかり軽くなってゆくのにな。 ふとした拍子で水に戻ったようにはなるけど、どこか欠けてしまったような感じで、悲しみはさらさらとどこかへ流れてゆく。 よろこびは見えなくなるけれど、そこにそのままある。 蓄積して沈着していく。無くならない。 わたし自身が大きくならないことには、よろこびとありがたみとは、小さなからだに押し込めて持つことになるから、どんどんとくるしくなるばかり。 これ以上、自由になるところをうっかりと想像してしまった。 わたしはいつかこうしたい、と思っていたいくつかのことを、少しずつ手放しはじめていて。 例えば仕事。 いつか戻ろう、と、そう決めて、そのタイミングをずっとはかるような事を考えていたのに、こちらにくる少し前、もうそれはわたしに必要ではない気がしてしまって、もう二度と赤ん坊を取り上げることは仕事ですることはないだろうという気がした。 勿論、またいつか考えが変わるかもしれない可能性はあると思うけれど。 いつかきっとまた、と思っていた、なんの疑いもないこと。 それに何の決定打が打ち込まれたわけではないのに自分でポットリ落としてゆくようなことをやってしまった。 一度それができてしまうと、また今度はより容易にできてしまう。 そうして、全部おっことせるんじゃないか、って時々脳裏をかすめてなんだかこわくなる。 いつか、そのしたいことをしても、わたしは蒸発したりするんじゃないかって思って、すこしこわくなったのだ、正直言うと。 それならもう、そのしたいことをはじめからしないほうがいいよねって、考えが及んだことがこわかった。 あんまり、どこまでも自由になれることを知るのも考えものかもしれない。 三月が来る。ここは夏だけど。 写真は、今日の午後7時くらいのもの。

 
 
 

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