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目の奥を切る


感情的にならないように自分が努めている時、というのは、目の奥と脳の間に網があるような感じがする。 ぼぅっと遠くを見ている時に目の奥に力が入っていない感じを敢えて作る。 脳みそに流れてくる情報のスピードをゆるやかに、又、少しばかり曖昧にして受け取る。 眼球が奥に少し引っ込んでいる感じがする。 目に力が入らないので、視線をパッパと切り替えられない。 視線がよく、右側に泳ぐ。 そういえば、元々普段は、左によく泳いでいたのに。 右脳と左脳の稼働比率が絶対に変化していると思う。 そのせいか、言葉がまた少し、出にくいような気もする。 何がそんなにこわいのだろう、って、冷静な頭ではわかるのに、いざとなった時に、何がそんなにわたしを動揺させるのだろう、と、わからないでいた。 ただ、すごく怖かった、何をしてもなんだか失敗しているのかも、と、ずっと気を張っていること。 それをずっと見張られているようであること。 懐かしい、かもしれない恐怖だったんだけど、当時はそれを怖いとすら認識できない状態だったから、今すごく怖いことは、わたしを安堵させもする。 食べたくないもの、飲みたくないものを食べさせられる(口につっこまれるわけではないが)というのは、本当に屈辱である、と、思う。 人の心はわからないものだけれど、理由がわからないのに目に見える強い行動、というのは、怖い。 何故あの人はこんなに親切なのか?ということでさえ、度を超えると恐怖も垣間見えるような、そういうこと。 理由が全く見えないのに、行動がしっかり見えるもの、というのはいいことでさえ怖いのだ。

ひととしての心が、すごく傷ついた10週間だった。 その分、少し、人間になれた気がしている。 こちらでのはじめての仕事は、そんな10週間だった。

食べたくない、食べれない、飲めない、と、何度も言っているのに、暗にそれを責めるようにしたり、もっと食べないのと敢えて聞いてくる意地悪さに、なんだかぺしゃんこになっていた。 言う方が参りそうな(わたしなら言えない)強い口調の言葉を散々言っておいて、 この曲聞いたらあなたのこと思い出します。だって、はじめてだったんですよ、この曲知ってて、好きって言ったひと。 なんて、心にもなさそうなことをまた、最後の挨拶代わりにさらりと口にした。 心がどこにもないなら言えそうなこと。だと思った。 ポジティブな言葉も、ネガティブな言葉も、これだけ心なく放てる人がいる事は怖いと思って、なんというか、テロって、こういうものなのかもしれないと思った。 全部彼の中では、例えば、わたしの感じる1/10くらいの感度でしか意味が認識できていないのなら、どんなに強い言葉も、彼にとっては何の強さでもないもので、ただ、体感できる言葉と、頭で知っている言葉の強さを認識できなくて、本来の正当なサイズでの言葉を彼は知らない(ように、わたしには見える)から、まるで何かがこわれているみたいに聞こえるのだろうか。 ことばを正しく使う、というのは、文法や意味の一貫性だけではない。 そこに違和感を感じる相手というのは、どうやったって分かり合える気がしない。 ちいさなちいさな人間関係で、なんというか、人間と人間が分かり合えない根本は、使うことばの違いだ、なんて思い至る。 外国で、日本語を使いながら、話したことばで、それを。

https://www.youtube.com/embed/P20NA5_nMfw (6/8に書きかけたものを、6/14に追記して)

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