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難しい方を選ぶ。

  • 執筆者の写真: 莉江 藤田
    莉江 藤田
  • 2016年9月30日
  • 読了時間: 3分

どうすればいいか迷った時に、難しい方をなるべく選んだ方がいい気がしている。 もちろんケースバイケースで、時短を選ぶこともしたいことを選ぶこともするけれど、そういう明確な理由なく迷っている時の話。

最近、以前に増して助けて頂いたり手伝っていただいたり親切にしていただいたりすることがどんと増えた。 おかしいんじゃないか?と思うほど、見知らぬひとからですら気持ちの良い親切を受ける。 台湾を旅した時に、散々コテンパンになるくらいの親切を受け(カルチャーショックというか)何か壊れたなってくらい親切漬けになって、親切にされることにいい意味で慣れた。 悪い意味では慣れたくない。 あたりまえに親切をうけて、きもちよくお礼を言う。 またどこかで自分も親切にしようと、何かに誓わざるを得ないようにされてしまう。 そんなこともあってか、助けてもらうことは苦しいことばかりだと思っていた過去から何か意識は変わった気がする。 自分が至らないから助けてもらうしかないという図式が辛かった。 迷惑ばかりかけて。と。 去年の個展では、本当にやれるだけのことをやったつもりで、そこに助けてくれる手がいくつもあって、自分ひとりでは立てない高さに立たせてもらったと、心から思った。 そこに申し訳なさはやっぱりあったけれど、倒れそうなほどやりきったつもりがあったぶん、申し訳なさだけではなかった。「助けたひともハピィだったんじゃ」と、言ってくれたひとにも救われた。 それでもやっぱり、自分でしたい。 もちろんその自分でやる「つもり」は必要なのだけど。 けれど、助けてもらうことの辛さは、自分が至らないからだけでもない。 このうれしさを、この恩を、どうしてくれようか。うけっぱなしで。 結局、それは自分自身のなにかへの応援のきもちをいただいていることであるから、すべきことを頑張ること。それに尽きる。 いつも、いつでも、伸びていないといけない。 作り手としてだけではなく、ひとりのひととして、上に伸びなさいという声に聞こえる。 じぶんのくだらなさをよく知っている。 こんななのに、そんなに気をかけてくださるの。ってきもちを遠慮や謙遜ではなく、それに見合う自分になれるように精進するために、苦しくっても受けること。 全然、思うようにはなれない。 けれどかけ続けてくれる親切やきもちを、更に裏切ることもできない。 自惚れているのかもしれないけれど、自惚れでも、恥ずかしくても、結局成長するのならいいじゃないか。 自分で行きたい。この足で。実力で。 と思っているところにも、ひとに連れて行ってもらう方が、実は何倍も難しい。(物理的な移動ではなく) 連れて行ってやりたい、と、思ってもらえることのほうがよほど難しいんだと思う。 わたしがよほど愛されるキャラクターを持っていたり、類まれない才能をもっていたら別だけど。 どっちも無いもの。 だから、自分の足で進みながらも、追い風を吹かせてくださる時には、素直に乗りたいと思うし、それがなんだか裏があるような気がすれば、歩みをとめてみればいい。 なんにも持っていないからこそ、信じられる親切ってある。 なにももってないことも幸せだ。

 
 
 

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